マスコミと個人の違い、野次馬根性はどちらも同じ?

マスコミの横暴を問う
個人による報道の賛否、動画サイト投稿の反響を受けて

動画投稿に対して、野次馬だ、不謹慎だ。という批判に対して、

自分が現場に到着した頃には被害者の方はすでにいなかったから、

批判にはあたらないという受け答えをしてきた。

しかし、その言い訳には無理があるやっぱり。

現場を映像として残し、そしてネットで伝えるという行動は、手段こそ今風だが野次馬根で得た独占情報によって飲み屋でヒーローになってるくだらないオヤジと同じだ。

もしもっと早く現場に到着していたら、もっと凄惨な映像を撮っていたろうし、もっと大きな反響だったんだろう。おそらく被害者の方の心情を害する映像も含まれていたに違いない。

たまたま少しだけ遅いタイミングで到着して、結果的に無難な映像しか入手できなかっただけ。不謹慎にあたらないなどということはまったく無理な話だ。むしろ、たまたま被害者の人を映さなくてすんだというべきだろう。


今回は秋葉で私が不謹慎な行為をとってしまったことを認める。
しかし、災害や事件はまたどこかで起こるはず。おそらく次は私でない誰かが事件に遭遇して、しかもその時たまたまカメラを持っていれば、同じように不謹慎と呼ばれることになるんだろう。

同じ空間を共有できていたのか−−秋葉原事件の撮影について
なぜ野次馬は怒られて、新聞記者なら怒られないのか。
マスコミは野次馬根性を隠すための共同幻想装置だ。
その空間の共感している場合、撮影が許容される例を紹介。
空間共有性を否定し、安全な第三者の立場から撮影するという行為は、マスメディアであっても、普通の人であっても、「野次馬」的であるという意味においては何ら変わりはないのだ。

不謹慎動画と思ったが、議論になっていたのでうp。
部分モザイクにしようとしたが、やり方わからなかったので全部モザイク。