アキバ事件、野次馬に関する考察エントリー集め

自分は不謹慎ではないと無邪気に信じられる人たちの不思議|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
誰にも知られることのない情報は存在していてもまるで無価値。
送り手の思惑などは意味を持たない。
価値は受け取る側が決めるもの。
不謹慎だという人たちは報道の大儀というものを本気で信じているんだろうか。
ニュースなんてものは瓦版の昔から人の好奇心を満たすためのエンターテイメント。
興味、関心、好奇心、野次馬根性…不謹慎というならすべてが不謹慎だろう。

「観客になる」のは「非日常」から自己を守るための儀式みたいなものでは。
写真を撮っていた人達、電話やメールで友人に状況を伝える人、「ブログエントリ」という形で自分が出くわした「非日常」をまとめている人達にいえること。
不意に「非日常」に出くわした人達の行為と、ある覚悟を持って「非日常」の真っ只中に突っ込んでいこうとする「ジャーナリスト」の行為を同列に並べるべきではないと思う。

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080608/1212954428
一瞬なりとも「死の恐怖」をリアルで味わって、その緊張が緩和した後なんだから、ああいう笑いとかすら出るのは仕方がないと思う。

2008-06-15
本当の動機である野次馬性が、「公共性」という衣服をまとうことで見えなくなる。
「そのものとしては隠されながら得られる満足」=「猥褻さ」と定義。
<報道/野次馬>という対立軸によってではなく、その両者に共にかかわる「眼差しにおける猥褻さの構造」というきわめて一般的な次元から理解しなければならないものである。

秋葉原無差別殺傷事件 “記念撮影”する傍観者たち
われ先に携帯電話をかざし、現場を撮影しようとしていた。ひとしきり写真を撮ると、何ごともなかったかのように、その場を立ち去っていく。
・「ネット上のバーチャルな世界が本来の自分の姿だと錯覚するようになると、生きている重みを実感しづらくなってしまう」。
・自分のことでなければ心が痛まない、災難が降りかからなければいいという『傍観』の立場が許されるのが最近の風潮。